年末にあたり、
よしりん先生の登場です
4月に始めた「ゴー宣道場」が
まもなく年内を終え、
2011年を迎えようとしています。
まだ一年間も
やっていない段階です。
たった9回ですが色々難局があり、
議論の深さや参加者の水準が
確実に上がり、しかも徐々に
良い方向に変化し続けています。
師範方は毎回の議論の
質を高めるのに、熱意を持って
臨んでくれています。
企画設定から、打ち合わせから、
会場探しから、募集・返信から、
名簿づくりから、動画収録・編集から、
打ち合わせや動画の打ち上げなどの
レストラン予約から、ブログから、
メーリングリストの内容管理から、
資金捻出から、その他数々の雑事は、
すべてわしと、よしりん企画の
岸端と時浦・宇都がやっています。
まずわしは絶対に病気ができない
身分になってしまいました。
風邪ひとつひくわけにはいかない。
体調の管理は
徹底的に気をつけていますが、
12月の道場後には
貧血起こして嘔吐し、
2・3日仕事に全力を
出せませんでした。
本業の仕事そのものが
増えてしまっているのですが、
その上「ゴー宣道場」の雑務や
人間関係の煩雑さを抱えこんだために、
特にわしと岸端は
半日とて余裕がなくなりました。
去年までは、
疲れたら箱根で温泉に入って、
読書や作品の構想を練る
時間があったのですが、
それもなくなりました。
運動はしないので、
唯一カラオケで大声出して
腹式呼吸することで、
ストレス発散と気力充実を
図っていたのですが、
一回もそんな時間はとれなくなりました。
渡部陽一ほどじゃないけど、
腹から声を出す力は
人に負けないと思っていたのですが、
最近では声が少しずつ
か細くなってきて、
高音を出すと咳が出る始末です。
特に参るのは人間関係の問題です。
師範方から門弟や道場生までに目を配り、
人間関係のこじれをなくすために
神経を使わなければならなくなりました。
そのために電話やメールで指示を出したり、
会って説得したりすることに、
随分時間を使うはめになっています。
改めて明言しておきますが、
「公論をつくる」という
わしの考えは本気です。
本気でなければ、
ここまで時間も金も労力もかけて、
収入に結び付かないことを
やるはずがない。
そもそも本気でなければ
面白さも楽しさも感じられないのが、
わしの性分です。
ですが、どうやら
「公論をつくる」という試みを
本気で信じていない者も
いるのではないかと
疑念を抱くこともあります。
「ゴー宣道場」は単なる
「遊び」ではありません。
もちろんギスギスの
修練の場にするつもりもない。
「遊び」や「ユーモア」を忘れたら、
目標に接近できないことは、
わしが『ゴーマニズム宣言』を
20年描き続けてきて、
一番わかっています
20年描き続けてきたことによって、
すでに多くの財産
(お金ではなく信用や人材)を
形成したことも最近益々、
自覚できるようになってきました。
この財産を糧に、
やってみたいことがある。
わしが老いる前に
やらねばならないことがあるから、
始めたことです。
幸いなことに、
「ゴー宣道場」の会場設営に、
われ先にと馳せ参じる
門弟たちの中に、
「公に奉ずる精神」を
見ることができる。
彼ら門弟たちの成長は、
わしのやる気を支えてくれる。
だが、関わる人間が多くなれば、
人間関係は煩雑になり、
懸命にほぐそうと努力しても、
各人の元々の目的が違っていることに
気付くようなことまであります。
基本的にはわしのように
全部を統括せねばならない立場になると、
全員から等距離になるように
心がけるしかなく、
孤独を覚悟せねばなりません。
一つ、
どうしても言っておきたいのは、
「ゴー宣道場」は
カウンセリング機関ではありませんし、
弱者を守る学園でもありません。
心の病を治す機関は必要なものですし、
弱者を守る学園も重要なものですが、
「ゴー宣道場」は違うのです。
「ゴー宣道場」はあくまでも
強者を育てる道場ですし、
強い磁場を形成して、
国家を突き動かすほどの
公論をつくらねばなりません。
「そんな大それたことが
できるわけないじゃないか」
と思う者は
始めから資格がないのです。
本気でやる者、真剣になる者、
情熱を持つ者のすべてを
「純粋まっすぐ君」と
決めつけるような冷笑者には、
本物の「快楽」は絶対に味わえない
わしは「快楽主義者」であると
宣言しておきましょう。
「快楽」は我にあり
門弟の諸君
道場生のみなさん
「自堕落」ではなく、
「公に奉じる精神」の向こうに、
本物の「快楽」を獲得するために、
来年も「ゴー宣道場」を
発展させていきましょう